錦織地域振興会について

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錦織の概要

1889年、西郡村と嵯峨立村が合併し錦織村が誕生、昭和の大合併で1956年米川村と合併し日高村が誕生、翌1957年5月1日、日高村と米谷町が合併して東和町が誕生した。さらに、平成の大合併で、登米郡8町と本吉郡津山町が合併し登米市となりました。
 錦織地域は、岩手県と宮城県の県境で、悠久に流れる北上川を西に、東には北上山脈中の高城山連邦を境とし米川に接した山村です。令和2年6月現在の人口は1,492人で、世帯数は525世帯です。
 産業は、農業が基幹産業ですが就労人口が減少するとともに、就労者の高齢化が進み担い手が少ない状況となっています。しかし、肥沃な畑地からは、良質な「ニンニク」「ごぼう」「ながいも」「りんご」が生産されており、県内外に広く知られています。
 交通条件について、これまでは国道346号線、県道東和薄衣線が主要道路となっていましたが、令和2年3月7日に錦織バイパスが開通し、多くの方が利用しています。
 地域の特徴として、「嵯峨立神楽」「嵯峨立甚句」「西郡太鼓」など先人から伝統的な文化を受け継いで、現在に伝えられてきました。また、総合運動公園や錦織公民館を核とした社会教育活動が盛んな地域です。
 平成17年4月登米市合併を受け、今後の地域内の振興発展を期し「錦織地域振興会」を設立し、地域の皆さんのご協力を得て各種地域振興事業に取り組んでいます。
 平成24年4月より登米市から錦織公民館を錦織地域振興会で指定管理を受託し、管理運営をしています。

地域のあゆみ

縄文中期 丸森山遺跡などから、この地で縄文時代の生活の跡がうかがえる。
平安時代 葛西氏が錦織をおさめる。
室町時代 西郡新左衛門が湖城に住む。
安土・桃山時代 葛西氏が滅んで、約400年にわたる葛西時代が終わる。
1644年 大内氏が西郡村をおさめる。
安永年間 安永の風土記がつくられ、この頃の人口は西郡村が732名、嵯峨立村が743名と記されている。
1873年 西郡、嵯峨立に小学校が開設される。
1880年 村松亀一郎氏が自由民権運動に参加する。
1889年 西郡村と嵯峨立村が合併して錦織村となる。
1895年 錦桜橋(船橋)ができる。
1918年 錦織に電灯がつく。
1947年 錦織中学校が開設される。
1956年 米川村と錦織村が合併して日高村となる。
錦桜橋が完成する。
1957年 日高村と米谷町が合併して東和町となる。
1960年 リンゴの団地栽培が始まる。
1976年 東和中学校が開校される。
1978年 宮城県沖地震で錦桜橋被害をうける。
2001年 第56回みやぎ国体開催総合運動場(アーチェリー競技)。
2005年 錦織地域振興会が発足する。
登米市が誕生する。
2008年 嵯峨立小学校と錦織小学校が統合し錦織小学校となる。
2011年 東日本大震災が発生し、総合運動場甚大な被害をうける。